授業の目的のひとつは、生徒の「わからない」を解決することです。

この問題がわからない。ここの文の意味がわからない。そうした「わからない」を解決していくことは、勉強における基本的な行為ですね。

しかし、授業の目的はそれだけではありません。少なくとも予備校doの授業においては、それは主たる目的にはなりません。

「わからない」を解決するのは独力でもできますし、むしろ独力で解決できるようになることが望ましいでしょう。私たちは生徒を「こういうときにはあの本を調べれば解決できそう」「これはネットで調べれば早いだろう」「この手の問題は前に見たことがあるからノートを見てみよう」といった形で解決できる学習者に育てたいと考えています。

では、授業の目的はどこにあるのか。その答えのひとつは「生徒の学習観を更新する」ことです。

ここで学習観というのは、「学習とは何だろうか」に対する答えであり、「自分は何のために学習するのか」に対する答えでもあり、「どうやって学習するのがよいか」に対する答えでもあります。もっと言うと、これらの問いに自ら向き合う姿勢でもあります。

こう話すと、何やら思想の匂いがするというか、哲学的な香りがするというか、ちょっと怪しげな雰囲気を感じるかもしれません。しかし、「学習観を更新する」というのは、生徒を大学に合格させるための単なる手段であって、なにか人生訓みたいなものとは違います。

「わからないことを丁寧に教えてもらえればできるようになるだろう」「とにかくたくさん勉強すれば合格するだろう」「自分は頭が悪いから勉強してもできるようにならない」といった学習観をもった生徒をたくさん見てきました。残念ながら、こうした考えを持ち続けていては、難関大学と呼ばれる大学には合格できません。ですから、それを更新するのが私たちの仕事の重要な部分であり、授業の目的にもなります。

基本的には、英語の文法がわからなければ丁寧に教えますし、フランス革命の流れがわからないならばそれも丁寧に解説します。しかし、あえて「丁寧ではない」指導を選択することがあります。そういうときが生徒の学習観に揺さぶりをかけているときです。

正直に言えば、毎回的確な選択ができている自信はありません。「あ、今回は丁寧に解説するだけでよかったかも」と思うこともありますし、逆に「ここは解説を我慢してもっと考えさせるべきだった」と思うこともあります。そのあたりはいまだ修業の日々です。