ここのところ、「基礎を早めにやって、過去問演習に時間をかけたい(かけたほうがいいんじゃないですか?)」といった要望(あるいは質問)が何件が続いていまして、それについてずっと(年末年始も)考えているのですが、どうにも考えがまとまらないので、さぼっていたブログを書きながら考えを整理しよう、と思ってこうして書いています。

どうやら一部の塾・予備校では、「3年の7月までに基礎をやって、8月から過去問演習をやろう」という指導(アドバイス)が行われているようなんですが、その指導の意図はさておき、「その指導を真に受けるのは危険なんじゃなかろうか」と思うわけです。

「基礎を早めにやって、過去問演習に時間をかける 」というのは、とてもよくわかる気がします。やるべきことを早くやったほうが、そうでない場合より、確実に合格できそうです。確かにそうです。そうなんですが、何か違う。その「何か」を明らかにしていきたいと思います。

どうやら、まず「基礎」というものを考え直す必要があるようです。

私たちが「基礎」という言葉を使うとき、それは「簡単」を意味しません。「基礎」は、簡単といえば簡単だけど、難しい面もあります。では、「基礎」とは何か。とりあえずは、「いつ何の話をするときにも、それに基づかねばいけないもの」といった感じでしょうか。

私は楽器をやらないので分からないのですが、たとえば、ヴァイオリンか何かで一曲演奏するにはいろいろな技術が必要でしょうけれど、まず一音一音がいつでも正確に出せないと、良い演奏にはならないでしょう。ヴァイオリンはかなり難しいそうですが、それなりに練習すれば、「その音だけ狙って出すなら、いちおう出せる」レベルにはなるような気がします。しかし、その音の良さは、うまい人とそうでない人とで相当の差が生まれるでしょうし、流れのなかで正確な音を出すとなると、難しさが全然違うだろうことは想像できます。

別の例も。ニンジンを輪切りにすることを考えてみます。料理をほとんどしない私でも、輪切りくらいできます。遅いし、厚みがバラバラになりますけど。それに、その作業に集中しないとできませんけれど。この輪切りが「基礎」のイメージなんです。「それに集中すれば、そしてゆっくりやれば、正確とは言えないかもしれないけれど、素人でもできるにはできる」のが特徴です。そういう意味では「基礎」は簡単です。ですが、料理人のように「別の作業のことを考えながら、素早く正確に」できるようになるには、相応の訓練が必要です。つまり、「とりあえずできる」「まあまあできる」「プロのようにできる」といった「習得段階」があるわけです。

一曲の演奏は、多数の一音から成り立っている。これが基礎の「普遍性」であり、輪切りの例は、基礎の「習得段階性」を表しています。

「基礎を早めにやって、過去問演習に時間をかける」という発想は、基礎の「普遍性」と「習得段階性」を無視しているように思えます。このあたりのことを説明したいのですが、だいぶ長くなったので、今回はここまでにします。