私も講師の仕事を始めてから10年以上が経ちますが、やっぱり基礎が大事だよなぁと今でも思います。いや、今のほうが昔より強くそう思います。
たとえば古典でいえば、動詞の活用は基礎中の基礎。動詞の活用というのは、「咲かず/咲きけり/咲く/咲くとき/咲けども/咲け」というやつですね。これの知識が曖昧ですと、「春立てば花とや見らむ白雪のかかれる枝に鶯のなく」なんていう歌は理解できません。いえ、もちろん、この歌はこういう意味ですよと教えられれば、それは理解できるでしょう。しかし、なぜそういう意味になるのか、を理解するには動詞の活用の知識が欠かせません。たとえば「春立てば」を「春立たば」にすると意味が大きく異なってきますが、その違いに気付くには、やはり動詞の活用の知識が必要になります。
しかし皮肉なことですが、何が基礎にあたるのか、そしてそれがいかに重要なのかに本当に気付けるのは、その基礎を身につけた後なのです。「この問題にも、あの問題にも、その問題にも、この知識が関与している!」「この知識がなければ、結局、この問題も、あの問題も、その問題も理解できないではないか!」という気付きは、その知識が自分のなかで確立し、その他の事柄に応用できたときにしか起こりません。確固たる知識があってこそ、そこから派生している事柄に気付くことができるのです。
最近掛け算を習い始めた小学生に「掛け算というのは、確率や三角関数、積分を理解するにも必要なんだぞ!」と言っても、理解してくれるはずありません。もちろん、「いま習っていることは、この後に出てくる内容に関わるから大事なんですよ」と言うことはできますし、「そうなんだ、じゃあきちんと勉強しなきゃ」と思わせることもできるでしょう。しかしそれは、自分でその他の事柄との結びつきを発見したときの「うわ、基礎って重要じゃん!」という思いの重みには到底及びません。
基礎を学んでいる最中には、それが基礎だと気付けず、そしてそれの重要性に気付けない。これは、学習というものの構造がそうなっているわけで、どうしようもありません。基礎を分かることがどれだけ重要かは、分かっている人にしか分かりません。分かっている人と分かっていない人との間には、どうしようもない認識の溝が横たわっているのです。
これで終わってしまうと、「ああ、どうしようもないんだ…」となってしまうので、次回は、この認識の溝を飛び越える方法についてお話しします。
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